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カテゴリー「新選組紀行」の記事

2008年7月 1日 (火)

市ヶ谷『試衛館』あと

市ヶ谷の試衛館道場跡です。

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若き日の近藤さん達が剣の腕を磨き、食客たちがゴロゴロしていた(失礼w)試衛館があったであろう場所は、つわもの達が夢のあとではないけれど、普通の静かな住宅地のゴミステーション&駐車場になっていました。

日本一ゴミだしルールが厳しい地域・・・ってことも無いか。coldsweats01(きちんとしてらっしゃるとは思うけどw)

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そこには昔はきっと無かったであろう幟と、ステンレス製の碑が立っていましたよ。(やはり大河の影響ですかな。)

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Photo 

ちなみに行ったのはヘドウィグFACE公演楽日の朝です。(遅っ!)

2007年4月15日 (日)

桜田門外!

4月8日の朝…「ヘドウィグ…」千秋楽の日の朝のことであります。

時間が少しあるので観光もしないと・・・と言うわけで、宿に近い半蔵門近辺の桜を見に行きますかなと、散歩がてらに外に出ました。

皇居の御堀端をテクテク歩きながら、桜や菜の花を見物。勿論話題は「組!」&「幕末」、「ヘドウィグ」、「東京観光」・・・と言う普通なら繋がらないであろう話の種を、なんの引っ掛かりもなく盛り上がりながら歩くオタふたり・・・(Tさん、今回もお世話になりましたw)

現場は足で歩いて確認とは言うけれど(何の現場だ)、皇居の近くの観光スポットは歩いていける距離にあるのに気が付きました。この近辺で外せないところといえば・・・そう!

Photo_109 桜田門(外)!

「外」であることが重要です。

「尽忠報国の志、天晴れなり!」と心の中で絶叫!

ランニング中の地元の方、外人観光客がゆっくりしている中、明らかに違うテンションの上げ方をしている人間がいました。ここが“桜田門外の変”の桜田門・・・。雪は降っていないけれどここなんですね。脳内で関連映像を再生。

本当はここまで来る予定ではなかったんですが。(都庁に行く予定もしていたのでw)そこは「組!」オタ、何かに引き寄せられるようにここまで歩いてきてしまいました。

そして、桜田門・・・と言えば!振り向けばそこには、

Photo_110 警視庁!!!

「野望渦巻く大都会・・・。」のナレーションが脳内を駆け巡ります。

別方向にもテンションが上がります。(警視庁24時の見過ぎw)

でも、出来ればご厄介にはなりたくないですね。ま、なるとしたら兵庫県警のほうが確率高いですけど。

そして、ここまで来たのなら入らねばなりませんな、とばかりに門をくぐります。愛用のカメラを持ってきてたのに、置いてきてしまったのは残念。本当にその辺を散歩の予定だったので。(笑)

Photo_112 桜田門からは国会議事堂も見えました。

携帯カメラだったのでズームできなかったのは残念。

撮影している時は、画面の確認できないし・・・(暗くなるので。)

皇居外苑をぶらぶらしていますと、去年の秋に皇居見学をした時に見た風景(こちらが江戸時代であちらが現代と言う不思議な)が見えました。集合地だった桔梗門が近いのに気が付き、見学の時は地下鉄を乗り継いでいったのに、実は歩いていける距離にあったのを知り、土地勘のない悲しさを実感しました。

その時見学した伏見櫓や、二重橋が見えます。皇居の内と外からの見学が出来てなかなか楽しかったです。お天気も良かったし。

Photo_113 なんだかんだと思いを巡らせているうちに時間が過ぎてしまって、結局、都庁には行けませんでしたw

カメラを持っていたら、もっと遊んでいて新宿入りがギリギリになっていたかも。危なかった。恐るべし、皇居(江戸城)の魅力w できればまた見学に行きたいものです。

2007年3月 9日 (金)

沖田総司終焉の地 

今戸神社・・・浅草駅から徒歩で15~20分ぐらいのところにあります。

Photo_92

ここは沖田総司の終焉の地として紹介されています。

終焉の地に関しては、今戸と千駄ヶ谷の2説があります。

最近では千駄ヶ谷という事になっていますが、今戸説も捨て難いものがあります。

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慶応4年1月に品川についてから、松本良順のいる神田泉橋にある西洋医学所に療養に行ったようです。(1月15日)医学所は間もなく閉鎖されたため、患者は今戸八幡の称福寺に移されましたが、総司は結核なので、近くにある良順先生の家に移されたようです。

それは、当時はもっと広かった今戸八幡神社の敷地内に別家屋を建てたものだそうです。良順自身も神社内に家があったことを書いたものがあるそうです。

永倉新八の『同志連名記』に、

沖田総司 江戸浅草今戸八幡松本良順先生宿にて病死

と、記しています。

その後、総司が千駄ヶ谷に移されたことを永倉が知らなかったのか、書いてないだけなのかはわかりません。そのため、ここが終焉の地とされていたのかもしれませんね。総司が死亡した時は江戸に居なかったからなあ・・・。

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・・・・・・などと、考えるのは永倉新八に失礼かもしれません。良順先生と永倉とは行き来があったようだから、どこで死んだか知らないとは思えないです。

Photo_93 

良順先生の後、総司の主治医になったのは弟子の富士三哲先生で、浅草で開業していたそうです。

最近の新選組関係の本では沖田の終焉の地として、子母澤寛による千駄ヶ谷説を取っているのか、今戸の方が載っていないものもあります。両方書いている本もありますが。ドラマでは黒猫エピもあってか、千駄ヶ谷説をとっていますね。

2月になって千駄ヶ谷の植木屋平五郎のところに移されて、5月にそこで亡くなりました・・・ということらしいです。でも、この千駄ヶ谷説は後になってから出てきたそうです。もしかしたら、子母澤寛の小説が影響しているのかもしれません。

Photo_95 Photo_96 ちなみにこの神社、今戸焼の発祥の地で招き猫で有名です。縁結びの御利益があるそうです。

お守りや絵馬には猫の絵が描いてあります。

松本良順の家がどの位置にあったのかはっきり分からないそうです。街並みも、関東震災後の区画整理や、東京大空襲で昔の面影がなくなってしまっています。

境内の狛犬は文政5年に奉納されたそうなので、この狛犬に聞くしかないようです。

(無理か・・・笑)

2007年3月 8日 (木)

釜屋☆

3月2日、東京に着いてすぐに行ったところがここ!

京急・青山横丁駅で降り、“旧東海道”沿いにある「釜屋」あと。

建物はなく、数年前に設置されたと思われるプレートだけしかないのだけれど。

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品川寺(ほんせんじ)の向かい側にあります。ここは、公用で江戸に帰ってきた時の土方さんや隊士達、永井様が宿泊したところだそうです。鳥羽・伏見の戦いで破れて江戸にやってきた時もここを利用したそうです。

前の道、旧東海道なんですが、ここを昔の人は大阪や京都を目指して歩いていたんですね。

  品川寺には(門が工事中だった)大きなお地蔵様や銀杏の木がありました。土方さん達が来たときには既にあったので、「新選組の土方さん知ってる?どんな人だった?」って聞いてみたくなりました。

Photo_89 Photo_90 Photo_91

工事中!

3月4日に、板橋の新選組墓所に行ってきました。

去年の秋から慰霊碑の補修工事中となっています。

Photo_82 工事期間は今月末までの予定だから、ファイナルで東京に来る時は終わっているといいな。慰霊祭に来れないのが残念だけど。最初に来たときは夏だったので、余りにも蚊が多く、ゆっくりお参りできなかったんです。小森さんと耕史さんのコンサートに行くので、時間が無かったというのもありますが。今度行く時はしっかりお参りしたいし、隣の喫茶店で、“イサミあんみつ”を食べるの。(忘れていないw)今回、食べてる時間はあったのだけど、次回のお楽しみにしました。

Photo_85 Photo_87   それにしても、“新選組隊長”じゃなくて“新選組局長”ですよ~。看板直して欲しいな。

2006年11月12日 (日)

ひ、人が多すぎて・・・御陵衛士

霊山歴史館から出て昼食をとろうと私達は賑やかな二年坂方面に行きました。

3時過ぎでしたが何処も込んでいて入れそうにもありません。

適当に土産物屋を覗きながら、京都に何回か来ているけれど、こういうところって来たことあったかしら・・・?と過去を振り返ってみました。行ってるのは墓参りと、殺人現場ばっかりだな・・・と、気が付いてしみじみしましたw もともとそんなに興味が無いので別に構わないのですがww 人に京都の何処行ってきたの?って聞かれたときに困ってしまうのですね。言っても分かってもらえないことが殆どなのでw

さて、食事所を決めかねている時に、ふと、高台寺ってどっちだったっけ?空腹にも負けないオタ心が御陵衛士の屯所の存在を思い出させたのでした。近くに八坂の塔が・・・反対方向に来ている!記念撮影をすませて風情たっぷりの小道を通って高台寺に向かいました。か、観光客が多すぎる!ナンチャッテ舞妓はんもいる。まるでデモ隊の中に突入したかのような人の波。夜間拝観が出来るので人がどんどんやってきます。

ホントにこっち?と挫折しかけた時に・・・ありました。ひっそりとしているので見過ごしそうです。

Photo_64 御陵衛士屯所跡の月真院です。物凄い人の流れが一瞬途絶えた時に必死で撮影しました。観光客はここは何なのかな?という顔をして通り過ぎます。伊東甲子太郎達がいたころは賑やかといっても、こんなではなかったでしょうね。当時を偲びようがありませんでしたw

紅葉には少し早いようなのですが、人・人・人で酔いそうでした。

ここでどっと疲れが出てきました。お腹もすいてきたし。

しかし、私達は例の場所を思い出し、そちらに向かったのでした。

結局、この日の昼食は5時過ぎとなりましたwPhoto_65

霊山歴史館ではじける!

霊山歴史館・秋季特別展『龍馬と新選組の時代』を観に行ってきました。

9月に初めて行ったのですが、そのことをまだ書いていないのに今日のことを書くことになってしまいましたww

今回は歴史館の見学をメインに京都入りしました。御一緒していただいたZさん、ありがとうございました。楽しかったです!!

『龍馬と・・・』あるように坂本龍馬関係の資料が展示されていました。ビデオコーナーを見終わると等身大の龍馬フィギュアがおでむかえ。なかなかリアルで良い出来です。夜中に館内を歩きそうです。

初公開の『佐々木只三郎 血染めの鎖帷子』がありました。腹部に受けた傷の深さが簡単に推測できる破損の仕方です。血の跡も生々しかったです。負傷した時に所持品やお金を盗まれたそうで、混乱時の非情さが悲しいですね。この鎖帷子も売られていたようです。

佐々木只三郎の書がしたためられた屏風がありました。書かれた理由とその文字の感じから、彼の律儀な性格がうかがい知れます。遺体は後に改葬されて彼は会津に帰ることが出来ましたが、さぞ無念だったことでしょう。

さて、その佐々木只三郎が指示したのでは・・・?との説がある『龍馬暗殺』でありますが、近江屋にあった血染めの屏風(複製)と彼を斬ったとされる小刀もありました。傷や刃こぼれがすごく、激しい命のやり取りがなされていたことが伝わってきます。

龍馬の暗殺現場の近江屋を再現した模型がありました。これがまた良く出来ているんです。その隣では「刀が語る龍馬の最期」と言う短編が上映されていて、それ見てから模型を見るとその時の緊迫した空気が甦ってきます。さっき見た屏風もちゃんとありました。

新選組関係では、島田魁による新選組隊士名簿・日記があります。読み慣れない筆文字を知っている隊士の名前は無いか一生懸命探しましたよ。蟻通とかw

資料といっても、遺品ですから見ていると切なくなってきますがオタ・パワーを奮い起こし、どんどん見て行きました。

一番私達が盛り上がったのが、フルタ製菓の食玩フィギュアを使った『池田屋事件再現模型』です。スイッチを押すと行灯が点灯することに気付いた私達は、行灯を付けたり消したりして、事件当時の様子を体感しようとしました。(無理かww)何処に誰がいるか確認してはいちいち感動し、その様子の感想を言い合いましたw 平助の鉢金が落ちている、観柳斎がカッコいい、負傷した志士たちの様子(血の跡・食器の散乱)がきちんと表現されているetc. 横で上映されているビデオが物凄くオタ心をキャッチする出来映えで、フィギュア隊士の皆さんがあらゆるアングルからカッコよく撮影されています。それを見ながら模型で確認!もう模型は私達のもの状態でしたww(ちょうど人がいなかったので出来ました)

隣にある、大河ドラマの試衛館道場のスタジオセット再現模型でも盛り上がったのは、いうまでもありません。

何だかんだで、歴史館に3時間いた私達。お昼を食べていなかったのでこのぐらいの時間で出てきましたが、先に食べていたらもっと遊んでいたでしょうね。いや、遊んでいた。

2006年10月15日 (日)

新選組@修学旅行⑧[三条~四条]

更新が遅いうえにまばらになっていますが、9月17日の朝9:00前です。

池田屋跡を後にした私達は三条通りを西に進み、河原町通りを下りました。

Photo_49 私達が歩いている向かい側の通りに、“近江屋跡”があります。“坂本龍馬、中岡慎太郎 遭難之地”であります。

交差点の横断歩道を渡り、現在は京阪交通社という旅行会社の前にある石碑の前に立ちました。

日曜の朝なので人通りもほとんどありませんが、もう1時間もしたら大勢の人が行きかう賑やかな通りになります。「近江屋も池田屋も何で残してないんやー」などと言いながら写真を撮ったり、組!での、龍馬暗殺のシーンを思い出したりします。知らない人が見たら変な小グループですw

今の河原町通りは大正時代に西に拡張されたそうです。当時の河原通りは道幅2間で、現在の歩道より少し広い程度のものだったようです。(通りの東側は土佐藩邸)

そうなると、交差点の私達が渡ってきた側あたりから既に「近江屋」になるわけですね。二車線の河原町通りは近江屋の真ん中を通っていることになります。・・・と言うことは、暗殺現場になった奥の間は、私達がオタパワーを炸裂させていたところ周辺になるわけです。知らないこととは言いながら、坂本さん、中岡さん、騒いでごめんなさい。

暗殺現場跡でひとしきり騒いだ私達は、先ほど渡った交差点の信号が青なのに気付き、必死で走ってもと来た歩道に戻りました。当時であれば、近江屋の玄関から「御用改めでござる」とばかりに踏み込んで、迷惑関係無しにやることやって走り去る・・・みたいなことをしてたわけですねw

Photo_50 河原道通りをさらに下って、四条通の一筋手前の何やら昭和レトロ調の路地に入ります。(夜に来たらどんなのなんだろう。)ここの雰囲気だけでも楽しめますが、私達は先に進まねばなりません。この先、四条小橋には“桝屋跡”があるからです。薪炭商・桝屋喜右衛門こと尊王系志士で武器調達をしていた古高俊太郎の寓居です。彼が捕えられたことが池田屋騒動の発端となります。

現在、桝屋の跡には「志る幸」さんという名前そのままに、汁物を看板としている料理屋さんになっています。現在の建物は当時のものでは違いますが、一部に遺材が使用されているそうです。その昔、鉄砲などの武器が密かにやり取りされていた物騒なところだった・・・などと想像もつかない、しっとりと落ち着いた京都らしいたたずまいです。こういうところで食事がしたいものです。

路地を引き返して行くにしたがって、現在に近づいていくような不思議な感覚を感じました。こういうところは、さすが京都・・・と思ってしまう。

あれ?ガイドマップによるとこの路地の入口あたりに“中岡慎太郎寓居跡”とある・・・気が付かなかったのか?特に石碑などは立ってなかったのか?昭和レトロな路地に気をとられ、スルーしてしまったのかもしれない。今度行く時は気を付けておかなくてはw

三条には坂本龍馬の寓居であった“酢屋”もあるし。この辺りは、土佐藩!って感じですね。

阪急河原町から電車に乗り、阪急大宮で降りました。

いよいよ、壬生にやってまいりました。9月17日の朝、9時過ぎです。

2006年10月 8日 (日)

新選組@修学旅行⑦[三条小橋・・・そして、池田屋へ!]

三条大橋を渡り、西に向かいます。高瀬川という小さな水路みたいな川が流れていて、小さな橋が架かっています。“三条小橋”です。池田屋まであと少し。

はて、我等の行く手に何やら石碑が・・・佐久間象山遭難之地・大村益二郎遭難之地・・・?何でこのふたりの名前が仲良く石碑とはいえ並んでいるのだろう。

Photo_34 ガイドブックに載っていた位置はもっと北だったように思うのだけど、理由があって移したのか?

・・・ん? “北へ壱丁” 案内板かよー!御丁寧に横にダンダラ看板があるから、ここかと思うではないかー!実際のふたりの地碑も近くにあるけど。橋を渡らずに北に上がれば「桂小五郎寓居跡碑(現・幾松)」「丹虎旅館跡(金茶寮)」もあります。

小橋を渡り、少し行くとパチンコ屋さんがあります。そこは・・・

「待たせたな!」 池田屋です!

「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑がお店の前に立てられています。

池田屋騒動・・・元治元年・六月五日、新選組が会合中の尊皇攘夷派の志士を襲撃した事件のことを言います。その現場に私達は来ています。(TVのレポーターみたいw)

パチンコ・ファンのおじさんたちが、早朝から陣取っていたらどうしよう・・・と言う不安がありましたが、幸い人通りも少なく、短い時間でしたが留まる事が出来ました。脳内はコンコンチキチンと祇園囃子が鳴り響き、今まで見た映画やドラマの池田屋騒動の映像が高速自動再生されました。

Photo_36 Photo_45 Photo_47看板によると、騒動で闘死・自害したものは9人、その時の負傷がもとで死亡した者、他の名前も記されています。結局騒動で16人の死者が出ています。新選組側の死亡者は3人。不意をつかれた側とフル装備で向かった者達との差が出ました。隊士達は壬生寺に、志士達は三縁寺に葬られています。

騒動があったのが祇園祭の宵々山だから、今の7月か・・・。京都の夏の暑さは“油照り”といわれるほど暑いです。夜でも蒸し暑さはおさまりません。そんな時のせせこましい建物の中での乱闘だから、鎖帷子を着た隊士達は暑さとも戦わなければならなかったわけですね!組!で藤堂平助が鉢金を取ってしまいますけど、気持ちは分かります。

襲撃した時刻は夜の10時。現在みたいに電気が通っていて蛍光灯でピカー!の室内ではなかったはず・・・。薄暗い、または殆ど真っ暗な中での斬り合い。(というより鴨居が低いから衝き合いか?)怖すぎる。案外、新選組は踏み込んだ時の人数が少なかったのが良かったのかも知れませんね。同士討ちの危険もあったでしょうし。

蒸し暑くて真っ暗な中で、何処から襲ってくるか分からない敵と戦う恐怖・・・そんな時に聞こえてくる近藤勇局長の凄まじい気合は、隊士達を励ましたでしょうね。

池田屋の建物は昭和6年に取り壊されるまで、当時そのままではないだろうけど残っていたそうです。古写真が残っています。老朽化で取り壊したのかな・・・勿体無い。当時、新選組がこんなに人気が出るなんて誰も分からなかったから、仕方がないですけどね。分かっていたら、間違いなく資料館か記念館が出来てますね。

それにしても、これだけの惨劇があった場所が、すぐに取り壊されずに残してあったなんて・・・。(また旅館として使ったのか?)血みどろの内部はどうしたんだろう・・・当時、殺人現場清掃の業者なんかいないだろうし。遺体を運び出すのも、色んな物が散乱していて大変だったはず。畳や襖は取替え、壁は塗り替えるにしても、柱や床に染み付いた血痕や臭いは・・・?激しく気になる。それと・・・出なかったのか?こちらも気になります。(見たくはないけど。)

池田屋の跡に今はパチンコ屋さんがありますが、20年ほど前の写真を見ると、ケンタッキー・フライドチキンの店があったようです。飲食店もあり、“モダン焼き 池田屋”という看板がかかっているのがツボですww モダン焼屋さんなら入って食事ができたのに。残念!

2006年9月28日 (木)

新選組@修学旅行⑥[三条大橋]

地下鉄三条京阪駅で下車。

三条大橋・・・九条山を越え蹴上の坂を下り辿り着く、中山道六十八次の終点です。

去年、三条大橋に来た時は大雨でしたが、今日は本当に台風が来てるの?というぐらいのお天気です。Photo_24

写真は三条大橋から北側を見たものです。この先は鞍馬や貴船になるのかな。河原はまだ夏の景色でとってものどかですが、ここはたくさんの人間の血が流れたところ。関白秀次の家族が処刑されたのはこの河原です。

新選組ファンにとっては、“近藤勇の首がさらされた場所”で忘れてはならないところです。

浪士組がここに到着したのは文久三年二月二十三日。

「逆賊足利尊氏、義詮、義満」と、足利将軍の木像が晒し首にされているところに出くわします。

“足利なんとか×3”ですね。

「京都で帝と将軍様の為に働く、一旗揚げる」と期待と希望に胸を膨らませていた、近藤勇と試衛館の仲間達。

5年後に自分の首が、その木像の首と挿げ替えられるかのように“逆賊”としてこの、三条河原に晒されるとは近藤自身も知る由もなかったわけです。

後の世に生まれた私達は結末を知っているので、「組!」でサノスケと新八の“おいど漫才”が可笑しくて悲しくもあるのです。この日に彼等が京に入ったのは運命のいたずらなんでしょうか。近藤勇の京都での夢は三条大橋で始まり、そして終わったのですが・・・その首はどこへ・・・? 会津のお墓に埋葬されていればいいなと思います。

Photo_26 三条大橋の柱の先についている擬宝珠と言うそうですが、これは戦国期のものらしいです。そのうちのひとつに斜めの傷が・・・これって刀傷かな?付けたのは新選組の隊士?色々と妄想が膨らみます。

「新選組!」の最終回放送前夜のスマステでは、香取慎吾君が河原側からこの橋を見たときに修学旅行か遠足の生徒達が声援と共に手を振っている様子が映っていたけれど、一年間、近藤勇になりきっていた慎吾君はどんな気持ちでいたのでしょう。また、この橋の上から、近藤勇の晒された首を見た京都の人々、新選組に所縁のあった人達の心の中はどんなだったのでしょうね。

橋の下を流れる水を見て、風に吹かれながら物思いに一瞬浸りました。